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2007/03/29

佃島(Final)

  少々佃の起こりについてです。1582年(天正1062日)明智光秀が本能寺で織田信長を討った。家康は、わずかな手勢で堺にいたが 光秀がほうっておくわけがないと急ぎ三河への脱出を開始し三河とは逆方向、大阪、兵庫の海辺へと急いだが 神崎川で船がなく、困っていた一行に船を集めてきたのが摂津国佃村の漁民であった。この時の漁民の働きは家康にとって忘れることのできないものとなりそれ以来、家康と佃村の漁民とのつながりが深くなったとか。

  慶長8年(1603年)家康が江戸幕府を開いた時に、佃村の漁民を江戸に呼び、石川島に近い島を居住地として与え、故郷の佃村に因み「佃島」と名付けた。
 彼らはこの地で漁をしながら江戸城内の台所をまかなうことで漁業権を与えられたが離れ小島であるために時化(シケ)どきにお菜に事欠き、また漁期には腐らない副食物が必要なところから、湾内で獲れた小魚を塩辛く煮込んで保存食を作ることを考えた、これが佃煮のルーツとされる。その後千葉から醤油が伝わり塩煮から醤油煮に変わり、これが評判を呼び江戸市中に広まり今の原型が出来た。

○㊧丸久㊥天安㊨佃源田中屋 店構えは何処にでもあるようなごく普通のお店ですが一歩中に踏み入れると歴史が感じられる雰囲気が溢れている。
Tukuda_map_2堤防ソバの案内板

佃小橋のソバになにやら埋設されてるので立ち入るなと。

佃島渡船、昭和2年3月に無賃の曳舟渡船となりそのとき建てられた。明治9年7月渡し銭5厘、大正15年東京市営に、昭和39年8月佃大橋開通で廃止された。中央区民文化財に登録されている。と説明板が。

遊漁船、佃にあっての風情です。対岸は湊2、3丁目辺り。
     
前に立つと「江戸の島」が妙に納得してしまう。但し、付近の高層建築群が無ければもっと良かったがね。



佃2丁目になると、こんな有様、マンション建築反対運動も開発の波に飲み込まれ今じゃドッチを向いてもマンションが眼に入る。
”佃島よ何処へゆく”せめて1丁目にはコンクリートの塊が出現しないよう切に望みますよ。上京の折の楽しみが無くなる。

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2007/03/24

佃島(その2老舗佃煮御三家)

 佃島、海を隔てて一方が石川島、もう一方が「鬼平犯科帖」の主人公長谷川平蔵が創設した足寄せ場へとつながっていた。佃小橋の欄干に立って住吉神社を眺めると、何故かその方角から江戸の空気が漂ってくるような気がする。しかし後方の高層建築群が何とも邪魔だ。

 隅田川方面に歩いて行くと醤油の煮詰まった良い香りが漂って来る。香りに誘われて進むと、ありました堤防沿いに三軒老舗の佃煮屋さんが。
 佃煮発祥の地で昔ながらにのれんを守り続ける姿は佃にあってこその風格です。本物の佃煮を味わうにはここしかありませんよ。

 「佃源田中屋」天保年間の創業だそうです。昔ながらの店頭での対面販売、量り売りは風情があります。

○佃源田中屋:中央区佃1-3-13 03-3531-2649
 「天安」御三家で一番古くから創業で天保8年と佃煮に添えられた栞に。老舗として良く知られているようで、マスコミにもよく登場します。

天安:中央区佃1-3-14  03-3531-3457
 「丸久」ここも天保年間の創業とか、結構眼につきやすい場所に位置してます。三軒ともに対面量り売りが共通です。都心の老舗と違って近所のおばさん風の店員さんが古き良き時代を思い起こさせます。そうそう丸久のそばに「北條秀司」の句碑が、そのそばの説明に「花柳章太郎」も佃が好きだったと。

○丸久:中央区佃1-20-4  03-3531-4823
 先入観として、関東のものは関西に比較してしょっぱい目との思いこみがありました。が違うのです、食べて見ると意外に甘口で最近の嗜好はどうも甘い方に向かっているのでしょうか?
 三軒の味の比較は難しい、好みの問題でもあるし一概には言い難い。店内においでになるお客さん見ていると、それぞれに贔屓があるようで。

 佃煮は、しょっぱく無くてはと信じている御仁には、こちらがお勧めです。頑なに昔ながらの手法で佃煮を作り続けている老舗が。総武線浅草橋駅から徒歩3分位のところに。熱いごはんの上に又はお茶漬けに佃煮は欠かせませんよね。

鮒佐:台東区浅草橋2-1-9 03-3851-7043

佃煮御三家、何れも支店等はありません。入手方法は直接店頭へ行かれるか、通信販売の何れかです。美味しい物を手に入れるには手間が係ります。手間を惜しんでは美味い物にはありつけません。

    
    
 人工衛星の写真と古地図比較してみると、あまり変わってる様には見えない。面影アリアリ。

 佃島は好きな場所です、コンクリートの高い壁に覆われてるのはいただけないが佃煮も、見える風景も、堤防のベンチに腰掛けて、ずっと隅田川眺めている古老の姿も・・・・何故か田舎の年老いた漁師の海を見ている姿に重なって。

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2007/03/19

佃島(その1路地裏考)


 昭和39年佃大橋が完成するまで、明石町との間に隅田川の渡し船のみだった。
完成後の佃島の変貌は周知の通りです。
    「雪降れば 
        佃は古き
           江戸の島」 北條秀司
 そんな感じが色濃く漂う所ですが、以前行った時みた高層マンション建設反対のポスターや反対運動も結局は効を奏さず、ご覧の状況が現出している。

 路地の間から見える高層マンション、全くどこからでも顔を見せる無機質なコンクリートの塊、手前の木造建物が愛しいよ

 こういう路地もあまり見かけなくなった、この辺りは里道がまだ道として機能してるのだ
       
 方角にも依るのだろうが、至る所で顔を出す高層マンション。これも佃の現風景

 洗濯物がぶら下がる軒を寄せ合う古き良き時代の路地風景

 路地奥に地蔵さんが祭られてた、以前は良く見かけた光景だが、今は希少価値?

 佃渡船の名残と思える隅田川堤防付近からも佃を威嚇する高層マンション群、ベンチでおじさんが午睡しておりましたバックが無ければ長閑な光景なんだが

 こういう散髪屋さんも少なくなってきた。社交場的雰囲気が溢れてた
この続きは又後日に・・・・

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2007/03/12

AKIHABARA NOW

 秋葉原は何処へ行くのだろうか?久し振りに行って驚いた。変わらぬ秋葉原と変貌する秋葉原。電気街のイメージが強かったが駅前の駐車場だったところが高層ビル群に。デンキ関係ショップはヨドバシカメラ以外見あたらない。
 秋葉原ダイビル、新秋葉原ビル、秋葉原駅前プラザビル、秋葉原クロスフィールド、タイムズタワー、ヨドバシカメラ等々駅周辺は様変わりの様相だ。それとは別に世間に知られた秋葉原、佇まいは変わらぬが以前有った店舗が無くなったりと静かに淘汰が進んでいるように見受けられる。(当日前を通った時に有った店舗が翌日の新聞orNETだったかに精算と)
                              

風景は変わらねど中身(テナント)はどうなんだろうね

Windows Vista深夜販売の翌日、お疲れさんって感じの昼下がり

変わらぬアキハバラデパートと新ビル群の秋葉原プラザビル?


駅前高層建物群と昭和通り方面の巨艦店「マルチメディアAKIBA」、こういう大型店(外様)が進出してくると秋葉原はどうなるんだろうか?旧アキバ派は個性をだして存在価値を高めて共存共栄を図って欲しい、無くなっては困るんだよ。大阪の日本橋、ここも外様に攻められて静かに変貌且つ、電気街に異質な店舗が増えている。ビックカメラとLABI1NANBA(何れも劣らぬ巨大店舗)に押されて淘汰されてるのか、何れにしても元気でいて欲しい、ここは大人の遊び場所でっせ。
                              







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2007/03/07

秩父長瀞

 秩父札所34ケ所観音霊場巡るほどの信心もなし、霊場なんて交通至便の地にあるハズも無し、また限られた時間では物理的にも無理と勝手に理屈をつけて・・・何も考えず駅から一番近かろうと秩父三社の宝登山神社と臘梅に惹かれて長瀞へ。長瀞駅→宝登山神社→奥宮→宝登山山頂→臘梅園→長瀞駅、行程ほぼ8km一と番楽かと思ったのがとんだ見当違いと後で知った。
 一番近いのは西武秩父駅から1kmの秩父神社だったが、こちとらは西武秩父駅から秩父電鉄御花畑まで歩いて(言うほどの距離ではないが)ここから乗換え長瀞へと知らぬは何とやらで。
 ただもう一つの目的が(これが本命だったが)宝登山の頂からなら冠雪した秩父連山が見渡せるとだろうと思ったこと。が暖冬のせいかまともに雪が分かるのは武甲山のみで後はよく見ないと分からない程度の冠雪だった。
   
   
   
   
   


 秩父のシンボル武甲山(別名秩父嶽秩父の盟主とされる)の石灰岩は日本屈指の良質な大鉱床であり山の北側斜面が石灰岩質であるためにセメントの原料として明治期より採掘が進められ山容が変わり標高も1900年(明治33年)の測量では標高は1,336メートルを記録。山頂付近も採掘が進められたために、1977年には標高1,295メートルとされた。雪に覆われていてもこの有様、雪の無いシーズンの山容は如何なもの何だろう。

西武秩父駅前からの武甲山、写真ではわかりにくいが(腕が悪いと言うなかれ)山肌は無惨だ。
写真は全て07/1/30撮影したものです。大きい目の写真は「旅、旅」からご覧下さい.

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2007/03/02

小江戸川越(後編)

蔵の街川越由来
 明治26年川越で大火があり1,303戸が焼失したが、数軒の蔵造りの建物が焼け残った。このことを教訓とした商人達は、競って店を蔵造り建築にした。これが蔵造りの町並みを生んで、最盛期には200軒余りもあったと言われている。今日では、市内に30軒余りが残っているだけになってしまったが、分厚いしっくい壁で塗り込めた蔵造りの店舗が、これだけ軒を連ねて残っているのは、他の都市には見られない景観である。特に、黒くて厚い壁、大きな鬼瓦と高い棟、どっしりとした風格は川越の文化と経済の伝統を象徴している。
川越と言う街は○○百選の多いところだ。
*重要伝統的建造物群保存地区、大沢家住宅
 明治の大火で焼失を免れた蔵造りの建物は耐火性の高さを実証し、この住宅に習って蔵造りの建物が競うように建てたと言います。

*都市景観百選(都市景観大賞)
*遊歩百選(読売新聞)


第八十五銀行本店(大正7年築)屋上のドーム、しゃれた縞模様の柱など異国情緒が蔵の街に映えてます。この建物は現在埼玉りそな銀行川越支店として現役であります。
  
*残したい日本の音風景百選(環境省)
   
*かおり風景百選(環境省)菓子屋横丁20軒余の菓子店が密集。昭和初期には70軒ほどあったとか。


とまぁこんな案配だ。都市景観百選、遊歩百選は先人が築いてきた「小江戸の町並み」を、残したい日本の音風景は「時の鐘」を、遊歩百選は「蔵造りの町並み」を、かおり風景百選は「菓子屋横丁」と、さすがと言うか。但し、市当局の保存への労力は大変なものと思われる。がんばって何時までもこの風景が存在することを祈りますです。
 大正浪漫通りはかつては川越第一の繁華街であったらしいが今は面影なし。

今は新富町界隈が元気なゾーンかな?「まるひろ」も元気みたいだし。


小江戸巡回バスで一つ一つ巡るのもまた一興ですが、時間に余裕ある方は徒歩でじっくり見て回る方が宜しい。小さな美術館も点在するし見所は数多く小江戸の薫りも楽しめるのではないかと。風の如く走り回ってきた者の反省の弁であります。

聞いた話:蔵造りは旧い物ほど背が低く、新しい物ほど背が高いそうです。この時代も見栄(財力誇示)や競争原理が働き、より大きいものを建てようと競ったとか。バスのドライバー氏の話です。

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